覚えておけ、王に必要なことはどのように馬に乗り、新聞を読み、署名を行うかということだけだ。 - イタリア王ウンベルト1世

 オナニーの語源は旧約聖書にあるオナンの逸話である。オナンは兄が子を設けずして死んだため、当時のユダヤ人の慣習に則って嫂、つまり亡き兄の未亡人と結婚しなければならなかった(レビラト婚)。ところがオナンは嫂とのセックスで精を地に漏らした。つまり膣外射精をした。それは嫂との間に子供ができたら財産がすべて兄の家系に受け継がれてしまい自分自身の財産を相続させられないからだ。ところがこの行為がユダヤの慣習を破ったとしてオナンはヤハウェに罰せられ殺された。
 つまるところオナンの逸話の段階ではこの行為はユダヤのレビラト婚に反して膣外射精したという話であったのだが、精を地に漏らすということでは同様の行為であるとしてオナニーという言葉が生まれた。
 キリスト教においてオナニーがオナンの逸話と結びついて、特に修道院で禁忌とされたのはカトリック全盛期の中世ヨーロッパになってからである。厳格なる中世ヨーロッパの修道院において肉欲は禁忌であった。
 しかしキリスト教においてオナニーが最も禁忌とされたのはあの表面上道徳について妙に厳しかったヴィクトリア朝のプロテスタント世界においてであろう。聖書至上主義の気風の中青少年への教育にあってオナニーは旧約聖書爾来の罪悪とされ厳しく禁止された。男性用の貞操帯が使われたのもこの時期である。オナニーは宗教上の罪悪として、また当時の未発達な性医学の認識の元不健康な行為として、禁忌とされたのである。


 ところでこのヴィクトリア朝を迎えるほんのしばらく前、フランス革命のさなかに、性哲学の偉人たるサド侯爵、ドナスィアン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サドが出現していた。サド侯爵、聖侯爵が獄中で書いた小説こそはオナニズムの精華といってもいいだろう。聖侯爵が牢獄の分厚い石の城壁に監禁された状態で書いた倒錯の性の長篇小説、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』はオナニズムの聖書と言ってもいい。
 そう、もしオナニズムが哲学として成り立ちうるのだとしたら同書はオナニズムの聖書と言ってもいい。『ソドム百二十日』における、特に後半の錯乱した記述は、オナニズムでしかあり得ないといっても過言ではない。

 現代社会にあって一般にオナニズムは劣化したセックスと見做されている。即ち性行為をする相手のいない孤独な寂しい営為と見做されている。
 しかしながら、聖侯爵が獄中にあって、城壁の中という絶望的な孤独の中執筆した『ソドム百二十日』を見れば、絶望の彼岸に達した超絶的な性の営みがあり得るのだとわかるだろう。
 オナニズムにあってこそ我々は肉体の檻から解き放たれ、自由に想像の翼を羽ばたかせることができる。オナニズムにあって重要なのは融通無礙な想像力である。そこにあって我々は自由に性別を超え、物理的行為の枷から解き放たれ、そこには想像の限りの苦痛と快楽があり、死という窮極のマゾヒズムすら経験できるのだ。実際に『ソドム百二十日』で聖侯爵お気に入りのオーギュスティーヌの死に様を見るに、その非現実性を見るに、そこには超越の神秘があり、丹念な惨殺の描写には神聖さすら見出しうる。オナニズムはこの不自由な物理世界を脱出し、精神の遥か高みを目指すことができるのだ。


 サド侯爵といえば「サディズム」の語源であり、嗜虐趣味の思想家と思われがちだが、まったく異なる。マルセイユの娼館で事件を起こして捕まった時も、あるいはそれ以前も、むしろ自分を鞭打たせるなどしている。
 またその著作に出てくる放蕩者、リベルタンたちも犠牲者を犯したりするだけではなく、馬蔵たちに自らを鞭打たせたり、馬蔵たちに肛門を犯されたりしている。
 総合的に読んでいっても、侯爵の作品の一つ『美徳の不幸』では主人公たる犠牲者の少女が犯されていくわけだが、それを見ても、あるいは『ソドム百二十日』を見ても、聖侯爵は犠牲者たちを犯して、つまり嗜虐して楽しんでいるというより、犠牲者たちの苦痛に思いを馳せて楽しんでいるように思えるのだ。あの丹念な残虐行為の著述(描写ではない)からはそれを感じるのである。

 実際のところサディストと言われる人々、特にオナニズムとして空想の中でサディズムを満足させんと見える人々はやはり犠牲者の側に自己を重ねて楽しんでいるように思える。
 現代のことではあるが、エロ漫画の編集者か誰かが、実際サド漫画の読者のある程度の割合が加虐よりも犠牲者の被虐に自己を重ねているのだと述べていた。彼らが好むのはサディズムエロ漫画であり、外見的には彼らはサディズムエロ漫画を読むサディストと映るが、実際には彼らはマゾヒストであったことになる。


 サディズムの真逆はマゾヒズムということになっている。
 確かに私はサディズムエロコンテンツを楽しむのだが、一般的にマゾヒズム的ということになっていることが一片も理解できない。
 例えばいわゆる女王様的なものにピンヒールで踏まれるであるとか、罵られるであるとか、縛られるであるとか、鞭打たれるであるとか、何がいいのかさっぱり理解できない。それが性的に興奮するということがまったく理解できない。普通に痛そうと思うだけである。
 しかし上述のとおり、私はサディズムエロコンテンツを見聞して喜んでいる。それも、心情的に被害者の側に心理的に投影して楽しんでいる。

 女性のタイプへの好みも反転が見られる。女性を気の強よそうなサディスティックなS嬢と気の弱そうなM嬢に分けたとして、いわゆるマゾヒストはS嬢を見て踏まれたいなどと思うのであるらしいのだが、私のようなサディストはM嬢を見れば普通に嗜虐的になるし、S嬢を見ればそれはそれで屈従させようとして嗜虐心が湧く。ただし当然のことながらS嬢に自己投影してM男を虐めたいとは思わない。当たり前である。あるいはそれはM男が描く理想であろう。その辺はマゾヒズムを解さない私にとっては理解の及ばない夢想である。
 マゾヒズムの作家といえばマゾヒズムの語源ともなったレオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホや、日本の谷崎潤一郎などがいるが、やはり私は彼らの作品に共感できない。私は谷崎潤一郎に何度か挑戦したが、どうもここの辺りの根本的なところから駄目らしいのだ。


 サド侯爵は18世紀の終わりに著述活動をし、マゾッホは19世紀の作家だが、これらを分類してサディズム、マゾヒズムと名付けたのがリヒャルト・フォン・クラフト=エビングである。エビングはその他に「異常性欲」として「同性愛」と「フェティシズム」を挙げている。現代では到底受け入れられない区分ではあるが、19世紀当時のこととて仕方があるまい。

 あの精神分析学の生みの親であるジークムント・フロイトもまた当然ながらサディズムやマゾヒズムに大きく注目している。

 よくサディズムとマゾヒズムは鏡の両面だと言われることもあるが、その辺の事情を私の独自の論で示してみせたわけである。繰り返すが実際にサド侯爵もマゾッホも、サディズムもマゾヒズムも両方を実践して見せている。
 ただ世の中には「純粋なサディスト」や「純粋なマゾヒスト」も存在すると思われる。上述の「女王様」に踏まれて喜ぶようなマゾヒストのことである。彼らのような純粋なサディストやマゾヒストのことはよくわからない。わたしはそのどちらでもないからだ。おそらくそこにはナルシシズムとネクロフィリアの絶望的な暗黒の花園があるのだろうが、類推することしかできない。それに何より、私にはあまり興味がない。

 サディズムとマゾヒズムは鏡の両面と言った時、それは私がこの記事で叙述してきたような心理状態を指し、通常「サド=マゾヒズム」と呼ばれる。フロイトはこのサド=マゾヒズムの解釈にだいぶ迷ったようである。当初フロイトは、サディズムとは動物にある攻撃本能、闘争本能であり、マゾヒズムとはそれが自己の内面に向かったものだと考えていた。しかし晩年のフロイトはこの考えを改め、マゾヒズムこそが人間の死の衝動、即ちタナトスに向かうものであり、サディズムはそれが他者に向けられたものであると結論付けた。私もこの考えを支持している。そうすれば上述のサド=マゾヒズムについてのつまらない私の感想も整理がつくというものである。

 タナトスについて補足しておこう。フロイトの理論ではエロスとタナトスと呼ばれて「生の本能」「死の本能」とされがちだが、正確にはタナトスは死の「衝動」である。フロイトは晩年にはすべての生物にこのエロスとタナトスがあるやに考えていたようである。実際、死ぬことは必ず成功する。死の衝動とは無機物へ回帰したいという絶望的な憧憬である。実際、人間は疲れ果てたときなど「泥のように」眠りたいなどと言ったりする。しかし賢明にもフロイトはタナトスを「死の本能」などと言ったりしなかった。「死の衝動」である。

 死の衝動は人間、いや有機物すべてが抱くものである。そしてエロスの本能は、それが高揚した時しばしば死の衝動と重なり合う。その辺の事情を詳らかにしたのがジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』である。例えば原始宗教において、祭りの最高潮で生贄が捧げられる。そこで祭りの参加者たちはしばしば著しい陶酔状態へと昂揚する。生贄の死、溢れる血潮、即ちタナトス。そこに参加者はオルガスムを覚えるのである。


 話を私の性的嗜好の件に戻そう。私は基本的にエロコンテンツとして凌辱的なものを選ぶ。ただし最近は肉体的苦痛をそれほど伴わないものに志向しがちではあるが。いずれにせよ犠牲者を凌辱する方向が多い。またそうではなくとも、一方がもう一方を支配するという構造を取ることが多い。
 そして、妄想を働かせるときの主体、つまり自己を投影する相手としては犠牲者、被支配者である女性の側になる。その最大の理由は私が本質的にマゾヒストだからである。

 マゾヒズムの魅力……あるいは効用はここまで語ってきた内容が素地となる。私は犠牲者を通じ、人間性を略奪されることにより、よりタナトスへと接近することができるからである。苦痛だけではない。快楽もまた人間性を奪い私をタナトスへと昇らせる。

 しかしマゾヒズムといっても別に実際に苦痛が快楽になるわけではない。私が実際に人間性を略奪されても私はなんら嬉しくもない。ただのストレスにしかならない。
 この点は重要である。マゾヒズム、マゾヒストといっても、単に苦痛を与えられれば嬉しがるか、快楽を得られるかというと全くそのようなことはない。あくまでも「自分の許容できる筋書きの中で」でしかないのである。つまり加虐者が誰でもいいとかそういうことでもないのだ。あくまでも「自分のシナリオ」に沿って被虐されねばならない。そこに加虐者とのコミュニケーションは存在しない。この点は岸田秀が著作で述べている通りである。このような加虐=被虐行為など現実に存在し得ない。そもそも自らを女性の立場に置くのだからこのマゾヒズムは不可能でしかない。つまるところマゾヒズムとは絶望的なオナニズム、そしてナルシシズムの産物でしかない。本質的にオナニーでしか存在し得ない絶対孤独の営為でしかないのだ。

 このことについてエーリッヒ・フロムは見事なまでに絶対悪と断罪している。いわく、「悪ということは特別に人間的な現象である。悪とは人間以前の状態に退行し、特に人間的なるもの、即ち理性、愛、自由を排除しようということである。」
「悪の程度は、同時に退行の程度でもある。最大の悪とは、生に最も逆行しようとすること、即ち死に対する愛好、子宮、土壌、無機物へ戻ろうとする近親相姦的共生の努力であり、また自我の牢獄を離れないために、その人間をして生の仇敵たらしめるナルシシズム的な自己犠牲のことである。こういう生き方は地獄の生き方である。」
 こうも見事に断罪されては、もはや私は地獄の中で生きていくしかないのである。あるいはヴァーグナー楽劇の登場人物のように愛による救済を事実報われもしないのに夢想をするしかないのである。



執筆後記
 文章屋でありながら精神の病のために筆を置いて数年、ずいぶんと文章の質が悪くなってしまった。数年ぶりにまとまった文章を書いたが実に拙劣である。実のところこの記事のテーマで文章を書くのは三回か四回目くらいなのだが、その中でも一番出来が悪いように思える。何より今の私には文章を書くインセンティブがないのかもしれないが。
 どちらにしても、内容も文章自体も自分の衰えばかり感じるものになってしまった。もっとも私の文章に読者がいないのは最初にブログを書いてから進歩がないので構わないのであるが。